男と女の違い

男は「初めての男」になりたい

女は「最後の女」になりたい

男は身体の関係を持つ事がゴールで有り

女は身体の関係を持ってからが始まりで有る

男はナンバーワンになりたい

女はオンリーワンになりたい

男は理屈で動き

女は感情で動く

男は謝れない

女は忘れない

男は浮気した女を非難する

女は浮気相手の女を許せない

男は浪漫を求める

女はロマンチックを求める

男は察しない事が多く

女は説明しない事が多い

だから男女の関係はとても面白い…

悩み事相談

真実の愛とは?

【愛の本質】

愛は与えすぎると

与えられた側は、

貰える事が当たり前になる…

そしてその関係は一方的になり

長くは続かない…

愛はやはり平等が相応しい…

ただ、それもまた難しい…

愛は惜しみなく与う

トルストイ (ロシアの小説家・思想家)

愛の表現は惜しみなく与えるだろう。

しかし、愛の本体は惜しみなく奪うものだ

有島武郎 (小説家)

愛は自己への獲得である。

愛は惜しみなく奪うものだ。

愛せられるものは奪われてはいるが、

不思議なことに何物も奪われてはいない。

然し愛するものは必ず奪っている。

【4つの愛】

エロース(性愛 )

フィリア(隣人愛)

アガペー(真の愛)

ストルゲー(家族愛)

古典ギリシア語での愛

このような神の無限の愛、人間に対し普遍的に提供される「愛」を表現するため、『新約聖書』の福音書記者たちは、ギリシア語の αγαπη[2]という言葉を選んだ。選んだというのは、ギリシア語には「愛」を表現する言葉が基本的には四つあり、エロース (ερως[3]、性愛) 、フィリア (φιλια[4]、隣人愛) 、アガペー (αγαπη、真の愛) 、ストルゲー (στοργή[5]、家族愛) である。

エロースは古代ギリシアにおける神聖な神であり、また「性愛」や「肉体の愛」を典型的に意味した。エロースは文化人類学的にも良く知られるように、女性の生殖は神秘であり驚異であり、神聖なものであった為、神と見做されたのであり、それ故、生殖の前提となる肉体の交渉での愛を必ず含意した。情欲的な愛、自己中心的な愛を意味し、聖書では用いられていない。

フィリアは、親子、兄弟、友人間の人間的ではあるが麗しい愛を表すのに用いられている。

神の愛としてのアガペー

ヘブライの伝統を引く原始キリスト教の信徒たちは、後の教父たちがギリシア哲学(特にプラトン哲学)を援用したとはいえ、初期には、ギリシア的伝統や、ローマの伝統とは別の形で彼らの信仰を表現したいと考えたと思える。また「神の愛」は、エロースの愛のような「肉体の愛」ではなく、「魂・霊の愛」であると考えられたので、「フィリア」か「アガペー」がより適切であった。「フィリア」は、友情や友愛の意味を持ち、この言葉がキリスト教の「愛」を示す言葉として選択されても不自然ではなかった。

しかし「アガペー」は家族愛のような意味を持ち、それ以外に、特に限定された強い用例のある「愛」ではなかったので、原始キリスト教の福音書記者たちやパウロスは、この言葉を「神の愛」を意味する言葉に採択したと考えられる[6]。

英語の古カトリック訳では、love と訳すと「エロース」によって表される情欲的な愛と誤解されることを避けて、チャリティー (英: charity、羅: caritas、カリタス) の訳語を当てている。その後、charity の意味に変化が起こって、現在では「慈善」の意味で用いられるようになったので、ティンダル訳では「アガペー」の訳語として love が用いられるようになった。

無限の愛の神学

神の愛、即ち「アガペー」は、無限にして無償であるというのは、この世の「悪」や「悲惨」の存在からして疑問とも考えられる。神が無限・無償に人間を愛してくださるのなら、何故、この世界には悪や悲惨や不幸や差別や貧困や、様々な矛盾が存在するのか。原始キリスト教の出現と並行して、擡頭した地中海世界でのグノーシス主義は、この世の悪の原因は、この世が「悪の神・偽の神」によって創造された為であるとした。

グノーシス主義の主張は、その基本的な「悪の実在」に関して明晰であり、非常に説得力がある。このため、敬虔なキリスト教徒の母の元に生まれながらも、思想的に、グノーシス主義の主張に共鳴したヒッポの聖アウグスティヌスは、東方グノーシス主義最大の教派であるマニ教の信徒となった。

善の欠如としての悪

しかし後にアウグスティヌスはキリスト教に回心(復帰)し、キリスト教の立場より、マニ教の主張を論駁する。この世に「悪の現象が実在」する根拠議論の前提として、アウグスティヌスは、神は世界を善でもって創造したのであり、その世界はまた多様な世界であることを指摘した。

この故に、世界が具体的な実在として現象するにおいて、善の現れが見かけ上で濃淡のあるものとなり、ある善の現象が実現するためには、別の現象において、そのような善が実現していないという事態が生じ、世界全体として、相対的に、善と悪が混合して存在するように認識されるのであって、「悪そのもの」は実は実在していないとの説明を行った。

これを、キリスト教神学的に「善の欠如としての悪」という。

アウグスティヌスの説は詭弁論法のようにも見え、マニ教の代表的な思想家とのあいだの論争はきわめて激しいものであった。また、当時、西ローマ帝国がゲルマン族の侵略によって荒廃した理由を、異教キリスト教がローマに広がった為であるとして、キリスト教を非難する主張が存在したが、これに対しても、アウグスティヌスは反駁して『神の国』を著し、西ローマ帝国の荒廃はキリスト教の興隆が原因ではなく、地上の歴史は、神の無限の善と愛の実現へと向かう、神の国の歴史の一面であるとして、世界史的歴史観を築いた。

トマスの存在の恩寵

しかし、「善の欠如としての悪」とは常識的に不可解であり、合理的とは思えない。そもそも「神の無限の愛」すなわちアガペーとは何であるのか、哲学的・神学的には、大きな問題を含んでいた。

これに対し、中世西欧においては、教父・神学者たちが数知れぬ議論を行った。13世紀の聖トマス・アクィナスは、イブン・ルシュドのアラビア・スコラ哲学をモデルに、その反論としての壮大な神学大系を築き、神の愛とは、事物(レース)に対する「存在(エッセ、Esse)」の無償の付与にあるとする見解を明示した。世界と事物、人間は、存在するという事実において、神よりの「エッセ(存在)」の無償の恵みを受けているのである。 しかし、人の存在は信仰によって条件付けられる。 存在することは、それ自体が「善」であり、存在物(レース)における「エッセの欠如」は即ち「無」である。最悪の悪は「無」であり、この世に現象的に悪が存在するとしても、それは存在の恩寵の上で、見かけの現象として現れているものである。世界や事物、人間がまさに存在しているという事実にこそ、神の無限の愛と恩寵、すなわちアガペーの顕現が見られるのである。

愛は、深い…

恋とは違う…

でも愛と恋の区別もまた難しい…